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時間の重み

ことしも残すところ、あと二週間となった。
令和4年は自分にとって、はたしてどんな年だったろうか。
一年を振り返るには少し早すぎる気がしないでもないが、この時期になるとなぜか感傷まじりの感慨がよぎる。

ことしを思い返すに、可もなく不可もなくというのが正直な気持ちだが、コロナに罹らず、こうして健康に過ごせてきたことを思えば、よろこばしき一年であったといえようか。
この二三年、コロナ禍に翻弄されてきただけに、健康のありがたさが身にしみる。

先々週から今週にかけて、出歩くことが続いた。
朝早くからの打ち合わせもあれば、数十年ぶりに顔を合わせるOB会があったり、YouTubeの生出演に誘われたり、気心のしれた仲間との忘年会などなど、かなりハードなスケジュールだった。

メンバーが違えば、話題も場所も違うのは道理だが、それぞれに満ち足りた時間を過ごせたのは何よりだった。
とりわけ、多くが来年、再来年につながる仕事関係の話で盛り上がったのは、「生涯現役」を標榜する身にすれば、これにまさる活力剤はない。

コロナ禍の影響もあって、近年は外出する機会がめっきり減ったが、今回のように立て続けに出かけると、人と交わることの大切さを思い知らされる。
家にこもってばかりいては、生気がじょじょに減退していく。
人間はやっぱり、他者から刺激を受けることによって、感受性を豊かにする生き物だということを実感する。

今から来年のことを言うと、鬼に笑われそうだが、覚悟と決意に早いも遅いもない。
出不精をあらため、来年はすすんで自然の息吹を求め、人とふれあい、士気を高めていきたいと思う。

歳をとると、時間が早く過ぎ去るように感じるらしい。
それは刺激が少ないからだ、と何かで聞いたことがあるが、老化というのは感受性が鈍くなるということでもあろうか。
認めたくないが、たぶん事実にちがいない。体力の老化よリも、精神の枯渇の方が私にはよほど怖い。

生きている人間の特権は、時間を自由に調整できることでもあろう。
時間とは、人生そのものに他ならない。
時間をおろそかにすることは、命を粗末にするに等しい。


2022/12/16 08:31 | COMMENT(0)TRACKBACK(0)

優しき激励

師走に入った途端、都心は一気に冬本番の寒さになった。
昨日までの暖かさがうそのようだ。
しかし、自然のいとなみにイレギュラーはつきもので、冬は冬らしくあるのが一番だ。

学生の街・お茶の水界隈は緑が多い。
その街路樹はいま、落ち葉しぐれとなって、冬支度を急いでいる。
歩道に散り敷いた落ち葉は、色もかたちも様々だ。

私の事務所は、JR御茶ノ水駅から歩いて一分とかからない近さにある。
勤め人だった頃、友人と共同で購入したのだが、縁あっていまは、私個人の所有になっている。
広さは15平米ほどのワンルームだが、どこへ行くにも便利で、立地条件としては申し分ない。

私は20代の勤め人の頃から、独立の気概が強かった。
40歳にして一人立つ、と心に決めていた。
それは無謀な思い上がりでもあったが、それがなんとか実践できたのは、折々に出会った幾人もの先達のおかげである。

あの日あのとき、もしその人に出会っていなければ、と天の配剤としか言いようのない奇跡的出会いに、何度手を合わせたことか。
それらの幾人かはすでに、鬼籍に入られて久しいが、ふとしたはずみにその人たちを思い偲ぶことがある。
じつは、ハラハラと舞い散る落ち葉を見ながら、在りし日の映像や面影がよぎったのだった。

後期高齢者の仲間入りをしたいま、あらためて一日一日の重さをかみしめる毎日だが、それだけになお一層、悔いなき人生を全うしたいと願わずにはおれない。
幸いにも、いまのところ体のどこにも支障はなく、やらねばならない仕事が山積している。

ざっと見まわしても、来年にとどまらず、二年後、三年後を見据えた企画が目白押しだ。
その多くが、海外展開をもくろんでいるだけに、年をとる暇もない、というのが今の正直な感想だ。

感傷に沈んだり、思い出にふけるというのは、もしかしたら、つかの間の休息であって、恩義ある人たちのためにも、より良い仕事をしなさいという、いわば優しき激励なのかもしれない。






2022/12/01 10:55 | COMMENT(0)TRACKBACK(0)

心意気

今朝の都心は雲一つない、抜けるような青空が広がっている。
朝晩の冷え込みはきつくなったが、乾き澄んだ秋の空気は自然の恵みを実感させてくれる。
11月生まれの私には、ことのほか好ましい季節でもある。

書いたり、描いたり、物思いにふけったり、また近くを散策したり……と、日々の営みにさしたる変化はない。
日日是好日(ひびこれこうじつ)、まずは安穏な暮らしに謝すべきであろうか。
もちろん、健康あっての物種である。

コロナ禍以来、出歩くことがめっきり減ったとはいえ、世の付き合いがなくなったわけではない。
人恋しさを見計らったかのように、仕事仲間や、気が置けない友人などから、
公私の区別がつきがたい、お誘いのメールが送りつけられてくる。

不思議なことに、この種の用向きは、重なり続くところがあって、
今月はめずらしく、予定がたてこんでいる。
その多くが、宴席とおぼしきなのは別に今に始まったことではない。

十年一日、いや数十年一日、ほとんど変わってはいない。
それだけ、まあ、知己友人にめぐまれた人生だと言えるかもしれない。
そのことを思うにつけ、頑丈に産んでくれた両親への感謝の気持ちを忘れてはなるまい。

予定表の中で、とりわけ感慨深いのは、大学の寮生時代の先輩同輩との再会である。
参加するのは多分、四、五人だろうか。
そのほとんどが後期高齢者の仲間入りをしているが、みなさん、じつに若々しい。

私が懐かしく、かつうれしく思うのは、
この集まりがただ、懐旧談義に終始するのではなく、
現役の仕事仲間として、来年、再来年の目標を語って倦むことがない点にある。

もちろん、中には悠々自適の隠居生活を送っている先輩もおられるのだが、
仕事話に耳を傾け、自身の体験を踏まえて、貴重なアドバイスをしてくれたりして、
さすが持つべきは先輩、とたちまち学生気分に戻られるのが何ともうれしい。

老いてますます盛ん、とはいまや当たり前のような言い草だが、
長寿社会と言われる現在、
風貌は昔と大きく変われど、何一つ衰えていない先輩の心意気は、五十有余年を経た今だからこそ、かけがえのない宝物に私には思われるのである。



2022/11/02 09:55 | COMMENT(0)TRACKBACK(0)

役者魂

訳あって、久しぶりに拙著『花影』を通読した。
自分が書いた物を読み返すというのは、どこか気恥ずかしくもあるが、懐かしさに引き込まれるところもある。
出来不出来はともかく、手塩にかけた本であればなおさらであろう。

とはいえ、読み終えていつも思うのは、こう書けば良かった、ああいう筋立てにしても良かったか、といった、いわば刃こぼれのような悔いが浮かんできて、どこか落ち着かない。

しかし、いくら振り返ってみたところで、書き直しはきかない。
過去は未来の道しるべと信じ、次回作はもうちょっとましなものをと、気持ちを新たにして進むのが賢い生き方というものだろう。

冒頭で書いた「訳」とは、二年ほど前に知り合ったある女性から、『花影』の感想メールが送られてきたことから、今一度、読み直してみたという訳である。
彼女のラインメールには、「ぜひどこかで朗読や演劇としてカタチにしたい」という熱い思いが綴られていた。

私の詩文画集『Haute couture de 和~吉本忠則の世界』も彼女は購読してくれていて、この夏、食事を一緒したとき、『花影』の話をしたら、その場ですぐにアマゾンに注文したのだった。
私は素早い行動力に感心しながら、役者として生き抜くにはこれくらいのバイタリティーが必要なのだろうと思った。

じつは彼女は映画に出演したり、舞台に立ったり、歌のライブをやったり、脚本・演出を手がけたり……といろんなことに果敢に挑戦するマルチな女優さんである。
『花影』の主人公を役者志望の、着物が似合う女性として描いているので、彼女自身、年格好が似ていることや、以前、舞台で遊女の役を演じたことがあるなど、何かと近しい自分の姿を、主人公に重ね合わせたのかもしれない。

いずれにしても、私の小説が彼女の役者魂を刺激したのは確かなようだった。
私としても発表当時、映画化の話(先方の都合で立ち消え)をいただいたことがあっただけに、舞台劇でも朗読劇でも、何か具体化されるなら、これほどうれしいことはない。

私の作品は書き物にしても、花扇画にしても、年配者向きのような気がしなくもないのだが、花も実もある若い女性が関心を寄せ、興味を持ってくれたのは、すなおにうれしく思った。

ジャンルの違う世界で、『花影』がどんなふうに演出、脚色されるか。
このところ、刺激の少ない生活を送っているので、若い人の感性は若返りのエキスになるかもしれない。
楽しみがまた一つ増えた。


2022/09/08 13:45 | COMMENT(0)TRACKBACK(0)

米沢紀行

記録づくめだった今年の猛暑も、じょじょに和らいできた感がある。
朝晩、窓から吹き流れてくる風は、もう夏のそれではない。
処暑も過ぎ、このまますみやかに、蝉しぐれから赤とんぼが飛び交う季節へと移行していってほしいものである。

その涼を求めて、というわけではないが、先週末、山形県の米沢に出向いた。
米沢は山形新幹線で素通りしたことはあるものの、降り立つのは初めてだった。初めて訪れる町というのは、どこか胸躍るものがある。
ましてや、米沢はかの名君・上杉鷹山(ようざん)公ゆかりの地とあれば、興趣がわかないはずがない。

為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり
人口に膾炙(かいしゃ)したこの言葉こそ、江戸時代後期の米沢藩主・上杉鷹山が、家臣に対して詠んだ和歌の名言である。
自ら倹約や節制を行い、領民たちと同じ目線に立つことで藩を立て直したとされる。
アメリカの35代大統領、ジョン・F・ケネディが最も尊敬する日本人として、上杉鷹山の名前をあげたエピソードは有名である。

今回の米沢行きはしかし、観光目的ではない。
旧友の造形作家・友永詔三さんが、よねざわ市民ギャラリー『友永詔三の世界~プリンプリン物語から幻想的木彫まで』展を開催(8月20日~9月4日)する、その陣中見舞いを兼ねてのことだった。
その会場で、仕事仲間であり、呑み仲間でもある松竹の中野さん、カメラマンの久保田君と落ち合うことになっていた。

じつは、今回の展覧会には、『文楽』人形の頭(かしら)9体が出品されることになっていた。
制作の途中経経過を、われわれは見知っているが、完成作品を見るのは初めてだった。
それぞれが時間をつくり、米沢に参集したのは、それだけみんなの期待が大きいことを物語ってもいた。

友永さんにとって、この種のキャラクターをつくるのは、NHKの連続テレビ人形劇『プリンプリン物語』以来とのこと。取りかかってしばらくは、勘が戻らなかったが、やっているうちに感覚がよみがえってきたという。
できあがった頭はたしかに、個性豊かで、これまでの文楽人形とは一線を画すものだった。アーティストの面目躍如と言って良いだろう。

文楽人形の話はもともと、私の詩文画集の完成を祝って、スタッフみんなで打ち上げをやったときに始まる。
スタッフの一人で、文楽に精通した黒崎さんが、新しい息吹を注ぎ込まないと、このままでは文楽は廃れてしまうかも、と懸念したのを聞き、それなら友永さんに、既存の枠にとらわれない頭を作ってもらいましょう、と私が勝手に安請け合いしたのだった。

友永さんにその話をすると、若い頃、阿波人形浄瑠璃の人形師から、誘いを受けたことがあるそうで、二つ返事で引き受けてくれた。こうして人形遣いのYさんを交え、企画実現に向かって一気に突き進んだのだった。

演目は中野さんの提案で、プッチーニ作曲のオペラ『蝶々夫人』に決まった。
私にとっては、初めての体験になるが、何点か舞台用の扇子をつくるつもりだ。

さいわい、本企画に合わせるように、海外からのアプローチがあったようだ。
国内外での開催は、ひとえにプロデューサーの中野さんの手腕にかかっているが、「為せば成る 為さねば成らぬ何事も」の鷹山公の地に結集したのだから、実現できないはずは絶対ないと、私は固く信じている。





2022/08/27 16:15 | COMMENT(0)TRACKBACK(0)