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森本草介さんのこと

FBを見ていたら、写真と見まごうような写実絵画の記事が出ていた。
それらの絵がいま、コレクターの間で人気なのだという。
スーパーリアリズムともハイパーリアリズムとも評される絵画は、たとえば人物画でいうと、肌の質感、目の色、髪の毛一本一本まで、じつに精緻微細に描かれ、観る人を圧倒し、魅了する。

近年、千葉に写実絵画だけを集めたホキ美術館が開館したのがきっかけで、ふたたび注目が集まっているようだ。この種の仕事で、コレクター垂涎の的だった作家のひとりに森本草介さんがいる。ホキ美術館の看板画家でもある。
その森本さんが「もうこの世にいない」と書かれていたのを見て、私は一瞬、言葉の意味を理解しかねた。

不覚にも、私は森本さんが他界されたことを知らなかった。調べてみると、2015年10月没とあったから、いまから二年前のことだ。
森本さんとは浅からぬ縁があっただけに、近年の疎遠が悔やまれてならない。絵の値段の話をして恐縮だが、森本さんの作品は数千万円で取引きされるほどで、人気絶頂のさなか、私が企画プロデュースした、営団地下鉄のメトロカードのために新作を描いていただいたことがある。

森本さんとのそもそもの縁は、NTTからテレホンカードが発売されて間もないころ、当時懇意にしていた銀座・フジヰ画廊で、テレホンカードと原画展を企画したことに始まる。私がまだ美術雑誌の編集者をやっているころのことで、知り合いのデザイナーが手掛けた森本さんのカードは、とても上品に仕上がった。それから二三年後、私が独立して、メトロカード用に作品の制作をお願いした折、先のテレホンカードの話をしたところ、森本さんもよく覚えられていて、親しくお話をさせていただくことができた。

当時の森本さんは超多忙で、新たに作品を描いてもらうというのはまず無理だったが、企画に興味を持っていただき、ご縁があれば描いていただけるかもしれない、とは考えていた。はたして、森本さんは即答を避けられたが、数日後、描かせていただきますとの快諾を得た。「メトロ美術散歩」と題したシリーズの第一弾は、日本画家と洋画家に、地下鉄の駅にかかわりのある名所旧跡を描いてもらうというもので、森本さんには東京駅にちなんで制作していただくことになった。

森本さんはとても物静かな方で、一緒にいるだけでこちらも穏やかな気持ちになった。人物画にしても風景画にしても、そして静物画にしても、気品あふれる作品世界は森本さんそのものであった。この人だからこそ、こうした絵が描けるのだと、私は目を開かれる思いがしたものだった。

森本さんにご揮毫いただいたのは10号の『憧憬』という作品で、女性像の背景に東京駅舎がポスターとして描かれていた。一目見て、私はその出来栄えに感動した。メトロカードという小さな画面にするのが、申し訳ないようにも思った。この絵を受け取るとき、奥様とお嬢さまにもお会いし、楽しく歓談させていただいたが、ご家族を大切にされる森本さんの人柄が思い偲ばれる。森本さんにはその後、“花と文学シリーズ”でもご協力いただき、一方ならぬお世話になった。

後年、画商さんらと飲食を共にしたとき、森本さんから「吉本さんが独り者だったら、うちの娘をと思ったことがあるんですよ」と小さく笑われた。そのときは森本さんも少しお酔いになっていたのだろう。遅ればせながら、森本さんのご冥福を祈るとともに、近いうちにホキ美術館に行ってみたいと思っている。

※「メトロ美術散歩」シリーズは、時代を彩る12人の画家に、“それぞれの東京、それぞれの心象”をコンセプトに制作を依頼した。その作家と作品について、私は解説文を書かせてもらったが、チラシは地下鉄の全駅で配布された。森本さんの『憧憬』についても書いているので、その全文を紹介させていただく。当時はまだ、扇子の仕事はしていなくて、アートコーディネーター、美術評論家を名乗っていた。懐かしくも恥ずかしくもあるが、私の生きてきた軌跡の一つには違いない。


  メトロ美術散歩 第3回 1990年
メトロ美術散歩 第三回チラシ                     

森本草介 『憧憬』 「メトロ美術散歩」より
森本草介 憧憬  10号  1990年作 メトロ美術散歩より


森本草介「憧憬」10号
 この作家の、神秘的で気品あふれるイメージ世界をさして、“日本のフェルメール”と洒落たのは誰だったか。肌合いも、髪の毛も、そしてコスチュームも、それ自体の美しさもさることながら、光と空気、それに時の流れをアンサンブルとして見立てることによって、美は一気に昇華の花を咲かせた感がある。
 森本草介の作品をじっと見ていると、思わず手を差し伸べたくなる。恐らく、そこに描かれた実体がどこまでも写実的でありながら、どこかこの世ならぬもう一つの実在を訴えているからに違いない。絵画の持つ魔性の力というべきか。単に感性に委ねるだけでなく、声なき声を聴く人間の知的な振動、いわゆる内在律を根底に秘めればこその、魂の底光りと評したら少し褒め言葉に過ぎるだろうか。
 それにしても、『憧憬』という題名が暗示するものは何か。煉瓦造りの東京駅が建立された頃の、過ぎし良き時代への郷愁か。それとも伏し目がちの美しい女性に秘められた詩的なリリシズムか。
 無類のクラシック・ファンである作者はその恵まれた音楽的感性を生かし、絶妙な色彩感覚のなかに一点一画を刻み込む。作品の底流に音楽と詩が感じられるのも、彼がまったき芸術家だからだろう。清浄な作品を前にして、出るは感嘆のため息ばかりである。




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2017/07/17 11:20 | COMMENT(0)TRACKBACK(0)

千慮の一失

どんなにすぐれた智者でも、
完璧ということはなく、
たまには失敗することもある。
千慮の一失」ということわざの意味である。

弘法も筆の誤り、も似たような意味だが、
この言葉を思い出したのは、
先日、日本画家・平山郁夫先生の奥様が、
東京国税局から遺産隠しを指摘されていた、とのニュースを耳にしたからである。

奥様はすでに修正申告されたとのことで、
平山先生ご夫妻に、一方ならぬお世話になった自分としては、
この話がこれ以上、
野次馬連中の口の端にのぼらないことを願うばかりである。

美術雑誌の編集者時代
私は鎌倉の平山郁夫先生のご自宅に、
しょっちゅうお伺いし、
お手伝いさんとも顔見知りになるほどであった。

広島で被爆した平山先生には、
私が同郷の被爆二世だということで、
多少、ひいき目で見てくれたところがあるかもしれない。
奥様にも何かとご厚誼を頂戴した。

平山先生のTVドキュメント番組では、
アートコーディネーターとして参加し、
ご夫妻に同行して、
飛行機、列車を乗り継ぎしながらインドの各地を訪ねた。

タール砂漠のほぼ中央部にある、
辺境の城塞都市・ジャイサルメールというオアシスの町に入ったときは、
炎天下、岩場の上で先生がスケッチされるその傍らで、
大きな日傘を差し、制作のお手伝いをさせていただいたこともある。

余談だが、この時の体験記を雑誌に書いたら、
他の用件で電話を頂戴した東山魁夷先生の奥様が、
その記事を読んでくださっていて、
「とてもよかったですよ」と褒めてくださったのは、
いまも忘れられない思い出となっている。

後年、広島のそごう百貨店で、
平山先生の展覧会が開催された折には、
主催者である中国新聞社やテレビ局、デパートの名士の方が居並ぶ中、
平山先生の奥様のご配慮で、
私の母と叔父を壇上に招いてもらったことがあった。

それまで、両親や叔父への孝行など、
ほとんどしたことがなかった私だが、
この時ばかりは、母も叔父も大感激し、
あらためて先生ご夫妻に、心から感謝したことではあった。

平山先生が逝かれてもう6年になるが、
先生の笑顔や制作中のお姿などが、
今更ながら懐かしく思い出されてくる。
奥様にはいつまでもお健やかにお過ごしいただきたいと願ってやまない。

2013/08/05 10:42 | COMMENT(0)TRACKBACK(0)

忘れえぬ先達~奥村土牛先生②

土牛先生との思い出の中で、
深く胸を打たれた出来事がある。

これは関係者の立場を考慮し、
長く自分の胸の内におさめてきたことだが、
別に悪い話ではないし、というよりも先生の人柄が偲ばれる事でもあるので、
時効気分もあって、この機に書いておきたいと思う。

あるとき、先輩の画商さんから、「相談がある」と電話があった。
知り合いの表具師が、土牛先生の作品を傷つけたので、
何とか先生に掛け合ってもらえないか、という切羽詰まったものだった。

詳しく聞いてみると、先生の作品を持っているコレクターから、
表装し直してほしいと頼まれた際、
作品にカビのようなものが付いていたので、表面を洗っているうちに、
取り返しがつかなくなってしまった、というのだった。

その画商さんも表具師さんも、常日頃、お世話になっていた方なので、
土牛先生のお嬢さんに事情を説明し、
身勝手と思いつつも、すぐに作品を持参した。

お嬢さんも困惑されたにちがいないが、
「しばらく預からせていただけますか」とおっしゃってくださったので、
とりあえずホッとしたものの、
先生はその頃、体調が芳しくないと聞いていただけに、気がかりでもあった。

それからひと月くらいしてだったろうか、お嬢さんから電話があった。
急いで駆けつけると、
テーブルの上に、私が持参した風呂敷があった。

お嬢さんは申し訳なさそうに、包みをほどきながら、
「ずいぶん遅くなってしまって」
そこには土牛先生の新作、
いや、先生が新たに筆を入れてくださった作品が、
見違えるように輝いていた。

私は息をのんだ。
土牛先生のご苦労、ご負担を思うと、
何と申し上げたらいいか、ただ頭を下げるよりなかった。
折り返し、くだんの画商さんに作品を届けると、
二人とも感動のあまり涙を流さんばかりだった。

後日、先生の所へお礼のご挨拶に伺うと、
お嬢さんがちょっと恥ずかしそうに、
「一度、秋山先生が女優さんを撮られているところを見てみたいんです」とおっしゃられたので、
早速、秋山先生のご了解を得て、六本木のスタジオへご案内した。

その時の女優さんが誰であったか、
たしか山本陽子さんだったように思うが、
残念ながら記憶が定かでない。

思えば、土牛先生にもまた、大変お世話になった。
先生がお亡くなりになってから、
奥村家にはすっかりご無沙汰しているが、お嬢さんはご健在だろうか。
ご存知の方がいらっしゃれば、教えていただければと思う。


2012/10/28 08:42 | COMMENT(0)TRACKBACK(0)

忘れえぬ先達~奥村土牛先生①

日本画の至宝・奥村土牛(1889~1990年)先生について書くのを、
一日延ばしたところ、
先生の作品を思いがけないところで観かけ、その不思議な巡り合わせに少々驚いている。

水谷豊主演の人気TVドラマ『相棒』は、脚本がわりとよくできていて、
私もよく見る番組の一つだが、
一昨日(水曜日)、放映されたドラマの中で、山種美術館(東京・虎ノ門)がロケに使われ、
そこで、土牛先生の『鳴門』が映し出されたのだった。

鳴門海峡のうず潮を描いた『鳴門』(昭和34年作)は、
土牛芸術の最高傑作のひとつであるばかりでなく、
近代日本画史に輝く、不滅の名作である。

       img082_convert_20121027080638.jpg
       奥村土牛 鳴門 1959年

私がこの作品を初めて観たのは、
昭和48年、東急百貨店(東京・渋谷)で開催された「奥村土牛展」。
激しい鳴門のうず潮を描いているのに、
私はなぜか、ひたすら静かなものを感じ、しばらく絵の前から離れることができなかった。
金縛りにでもあったような、そんな深い感動を受けた。

土牛先生の作品はじつはその前の年、
桜の古木を描いた『醍醐』(院展出品作)を都美術館で見て以来、
すっかり魅了されていたので、よけい感動が大きかったのかもしれない。

土牛先生は明治22年生まれなので、『醍醐』を描いたのは83歳のとき。
当時、私は25歳で、美術雑誌の編集に携わって間もないころだった。
それまでの自分は美術にはまるで縁遠かったが、
83歳にして、こんなみずみずしい絵が描けるのかと、そのエネルギーに圧倒される思いだった。

西永福にあった土牛先生のお宅へは、撮影やら題字のお願いごとなどで、
何度かお伺いしているが、忘れることのできない思い出がいくつかある。
そのうちの一つは、秋山庄太郎先生に渡してほしい、と富士の絵をお預りしたこと。

その頃、業界では「土牛百遍」という、有名な言葉があって、
百回お願いに上がっても、作品は描いてもらえない、というほど、
先生は寡筆だっただけに、
お嬢様を通じて、「秋山先生にお届けしてほしい」と言われたときは、さすがに緊張した。

土牛先生は当時、90歳を越えられていて、
そのお年になられても、三十も年下の秋山先生に敬意を払われ、
礼儀を尽くされるそのお姿に、私は深い感銘を受けた。

そして同時に、
一千万円はくだらない、高価で貴重なお作品を、
私ごときに託してくださる、その信頼のお気持ちがひどく嬉しくもあり、
人間的にもますます強く惹かれていったのである。

                              (この項、続く)


2012/10/26 15:31 | COMMENT(0)TRACKBACK(0)

忘れえぬ先達~秋山庄太郎先生

日本写真界の草分けの一人・秋山庄太郎先生とは、
30年以上の長きにわたって、お付き合いさせていただきました。
この間、撮影に同行して、全国各地をまわりましたが、
仕事だけにとどまらず、個人的にも何かとお世話になりました。

私の処女小説『幽花』(同朋舎出版)では、題字を書いていただいた上に、
出版記念パーティーの世話人までお引き受けいただき、
また、広島の従兄弟が季節料理店を出すときには、
その屋号を揮毫してもらったこともあります。
いつも身勝手で、厚かましい願いごとばかりでしたが、
先生は嫌な顔一つせず、引き受けてくれました。

先生は仕事をするとき、まったくの自然体で、
どなたとお会いしても、ほとんど変わりませんでした。
それはたぶん、自分が緊張すると、相手にも敏感に伝わり、
それがそのまま写真に出てくるので、
意識的にそう振舞っていたように思われます。

撮影に際して、
私は先生の求めに応じて、各先生方の話相手をつとめました。
少しでもリラックスした表情を撮りたいというのが、
先生の本意でもあったので、
私もできるだけ、くだけた話をするよう心がけました。

とはいえ、撮らせていただくのは、ほとんどが私よりも大先輩の、
それも高名な先生方ばかりでしたので、
何を話したらいいのか、ずいぶん思い悩みました。
多くは行き当たりばったりの、その時の気分、雰囲気次第でしたが、
撮影前の、挨拶まじりに交わす、
さりげない日常会話がどれだけ役立ったか、はかり知れません。

以来、何気ない会話一つにも、神経を配るようになりました。
今日の私が、人前でさほど緊張もせず、
リラックスして話せるようになったのは、
ひとえに先生に同行させていただいた、その体験の賜物と言ってもいいと思います。

先生とはどれだけ酒の席を囲んだか、
よく覚えていないくらいですが、
私が初めて先生にごちそうになったのが、
京都・先斗町にある、先生のなじみのバーであったことだけははっきりと覚えています。

暑い盛りの京都の町を、汗だくになりながら、
若い助手と、重たいカメラの機材を持って歩きまわった、
その労をねぎらうために、
先生が誘ってくれたのだろうと、
いまもその時の光景が懐かしく思い偲ばれます。

次回は、秋山先生が心から尊敬してやまなかった、
日本画の至宝・奥村土牛先生について書かせていただきます。


2012/10/23 10:14 | COMMENT(0)TRACKBACK(0)

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