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深層心理

50数年ぶりに、偶然、大学時代の寮友と出会った。
小料理屋に立ち寄り、カウンターで呑んでいたら、端の方に座っていた男三人のうちの一人が立ち上がり、私の名前を呼んだ。

私はとっさにはわからず、はて、どこの誰だろうと思いめぐらすうちに、かつて寮で一緒だったSくんだとわかった。
名前がすっと出てきたのが不思議なくらい、遙か昔のか細い記憶だった。
彼は私に近づくでもなく、「昔と全然、変わらないね」と言うと、そのまま一人、店を出て行った。

私はあっけに取られながら、よく自分のことがわかったな、と怪訝に思った。
彼はまったく歳をとっていなくて、ギョロッとした目は学生時代そのままだった。
その彼の目には、私の姿格好も学生時代とまったく同じように映ったのかもしれない。

それにしても、と私は彼のことを必死で思い出そうとするものの、何ひとつ思い浮かばない。彼とは学年も学部も違うし、特段親しかったわけではない。一緒に遊んだような記憶もない。ただ、寮生活を共にしたというに過ぎない。

彼が店を出て行った後、連れの男の一人が、
顔を合わせづらかったんだろう」と聞こえよがしに言った。
どういう意味か、私は聞き返そうとしたが、何も聞かない方がいいような気がして黙っていた。

ふと気づくと、若い婦人警官が隣に座っていた。
一緒に店に入ったような気がしないでもないが、はっきりしない。
彼女は出て行ったSくんについて、「知り合いですか」と尋問口調で聞いてきた。

私が返事をためらっていると、彼女は男を追いかけるように外へ出て行った。
私はそのとき、自分がなぜ、婦人警官と一緒だったのか、思い出した。
電動スクーターに乗って走りまわっていたところ、人気のない交差点で呼び止められたのだった。

最初のうちは、スピードの出し過ぎを注意され、運転マナーについて諭されていたのだが、なぜ、二人で小料理屋に入ったのか、夢の不思議と言うよりない。
私は電動スクーターなど乗ったことはないし、というより乗れない。また婦人警官に知り合いはいない。

しかし、広い車道を疾走している爽快さは、感覚としてはっきりと残っている。
また、Sくんの顔も声も鮮明に思い浮かべることができる。
ただ、話のストーリーはあやふやで、目が覚めた今となってはますますおぼつかない。

面白そうな夢だったので、ここに書こうと思い、記憶をたどっているうちにはっと気づいた。
登場したSくんや婦人警官、そして言葉のやりとり、シチュエーションはすべからく、失われた「青春」への追慕「若さ」への羨望を暗示していたのではないか。

近年、自分が老け込んでいるのではないか、と不安に感じることがある。
自分では、心身共に健やかだとうぬぼれているが、深層心理では、忍び寄る老いへの恐怖心がうずまいていて、そこから逃れたいとの思いから、こんな夢を見たのではないだろうか。
どうもそんな気がしてならない。

これは目が覚めて気づいたことだが、S君がかなり前に他界したと人づてに聞かされていた。どういう亡くなり方をしたのか、そこまでは聞かなかったように思うが、若死にだったことだけは確かだった。
しかし、夢の中のSくんは昔のままで、元気そうだった。目が生き生きしていた。

それにしても、記憶の底に沈んでいた、福島訛りの彼の声を50数年ぶりに聞いたのには、何か意味があるのだろうか。
また、どうして登場人物は彼だったのだろうか。
いくら考えてもわからない。




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2023/02/01 10:36 | COMMENT(0)TRACKBACK(0)

旧文化学院

ゴールデンウィーク期間中は気分転換と健康をかねて、徒歩による遠出を重ねた。
片道、最低1時間は歩くと決め、お茶の水方面、中野方面、早稲田方面へと、日にちを変えて足を伸ばした。そして9日の日曜日は、お茶の水から浅草橋を経て、錦糸町まで歩いた。
疲れるようなら、帰りは電車に乗るつもりだったが、さいわい杞憂に終わった。

今回の遠出は、いずれも買い物や所用ついでのところがあって、散策というわけではなかった。
それでも道中、史蹟や建造物、神社、庭園などを目にすると、足を止め、故事来歴に目を通したりして、にわか勉強ならぬ、梅木学問(うめのきがくもん)にひたった。

梅木学問」とは、梅の木は初め生長が早いが、大木にならないところから、 にわか仕込みの不確実な学問のことをさす言葉だが、それでもただ素通りするよりは、何か心に残るものはあるだろう。
袖触り合うも多生の縁、というやつだが、その日そのとき、出会ったり、目撃するのは決してたまたまではない。意味があるからこそ、その道を歩いていたのだと思いたい。

その伝のような話だが、ひと月くらい前だったか、JRお茶の水駅からほど近い、「とちのき通り」をぶらついたとき、昔懐かしい「旧文化学院校舎」が目にとまった。
そこは現在、BS11の本社(日本BS放送株式会社)ビルになっている。旧校舎はすでになく、アーチの入り口部分が残るのみだったが、たたずまいはシュールっぽくて、どこか文学的な香りを放っているように感じられた。

私は瞬間、制作中の詩文画集にポートレートを載せるのなら、この場所をおいてないと直感した。美術と文学のコラボに似つかわしい恰好のシチュエーションに思われたのだった。
カメラマンの久保田くんにその旨伝えると、早速、ロケハンに行ってくれて、「撮る場所にもよりますが、晴れよりも薄曇りのほうがいいですね」と言った。
ただ、建物の入り口に「関係者以外立ち入り禁止」の看板が立っていたので、撮影許可を取らないといけない。はたして許可がすんなり下りるか、ちょっと心配だった。

後日、プロデューサーの中野さんに会った折、その話をすると、その場ですぐにBS11本社に電話をしてくれた。知り合いがいるらしく、たちまちこちらが希望する日にちで撮影許可がおりた。
当日、BS11の企画部長さんがご丁寧に挨拶に見えられた。映画、演劇の制作、興行、配給を手掛ける「天下の松竹」の看板はさすが、と私と久保田くんは顔を見合わせたものだった。

懸念された天気も、望み通りの曇りがちの空模様だった。午前中の撮影ながら、構内に柔らかな光が差し込み、タイムトリップしたような空間が生まれた。空気感が違った。
私はそれまで気づかなかったが、遺構のようなレトロな窓には人物をつつみこむような光が似つかわしいことを、久保田くんは見抜いていたらしかった。

撮影はとどこおりなく終えた。
おかげで、アップから俯瞰まで、時代の息吹を感じさせる写真が撮れた。出来上がりは作品集を見てのお楽しみだが、モノクローム仕立てのカットは、久保田くんの腕と同時に、歴史的建造物のおかげでもあろうか。

時代を生き抜いてきた建物のアイデンティティーはすごい。
人をひれ伏させる、命の叫びが脈打っている。
高望みかもしれないが、私の詩文画集も、過去から未来へと連なる、いわば時空を超えた作品集にならないものか、と制作に関わるスタッフ一人一人の顔を、祈りと感謝の気持ちを込めて思い浮かべたものだった。




2021/05/11 10:20 | COMMENT(0)TRACKBACK(0)

追憶の儀式~広島の味めぐり

10月6日(日)から8日(火)にかけて広島に帰省した。
ここ数年、秋の彼岸前後に、墓参りをかねて里帰りするのが慣わしとなっている。
両親が他界して久しいが、年々歳々、お世話になった叔父叔母たちへの報恩感謝の思いは深まるばかりである。

私は青少年期、母方の祖父母や叔父叔母に一方ならぬ世話になった。
高校時代は祖父母の家から学校に通った。
家族と暮らした日々よりも、祖父母の家で過ごした想い出のほうが多いくらいだ。

そんなこともあって、叔父や叔母、従兄弟たちの顔を見に帰ることは、
自分の来し方を振り返る、ささやかな追憶の儀式となっている。
私が広島に帰ってくるのを心待ちにしてくれている、みんなの優しさ、ぬくもりが肌身に沁みる。

今回の帰省は、私には珍しく「」が主役の感があった。
6日の昼過ぎ、西広島駅へ迎えに来てくれた従兄弟夫妻らと連れだって、地御前に向かったのは、広島県人会の縁で東京で知り合った、東急スポーツオアシスの若宮豊さんのご実家が、当地でお好み焼き屋をやっていると知ったからである。

若宮さんとは県人会の集まりで数回、お会いしたに過ぎないが、何かと親しく口をきいていただいている。
それまで郷里とのふれあいを粗末にしてきた自分は、日頃の不徳を恥じ入るばかりだが、
縁あって、久しぶりに広島のお好み焼きに舌鼓を打つことができることを嬉しく思った。

お店に顔を出すと、思いがけず当の若宮さんが出迎えてくれた。
何でも所用があったので帰ってきたということだったが、その日のうちに東京へトンボ帰りすると聞き、かえって気を遣わせたのではないかと、私は恐縮するばかりだった。

お店に滞在したのは一時間足らずだったが、「お代は結構です」とご馳走にあずかったばかりか、手土産まで頂戴したのには、お礼の言葉もなかった。こぎれいなお店の雰囲気と、奥さんの温かい人柄がしみこんだお好み焼きの味を、私は忘れることはないだろう。

        「わかみや」のそば入りお好み焼き(広島・地御前)     「わかみや」のお好み焼き(広島・地御前)
        「わかみや」さんのお好み焼き(広島・地御前)

若宮さんを辞したあと、墓参りのはしごをした。
両親が眠る吉本家に続いて、叔母と従兄弟が眠るM家、母方の里であるS家、そして父方の本家と、私の人生と関わりを持つ四家に帰広の挨拶をし、墓前に手を合わせた。
予報では、広島は雨が降りそうだとのことだったが、曇り空で、暑くもなく、滞在中、一度も傘を使わずにすんだのは何よりだった。

その夜は、従兄弟の家で一年ぶりの再会を祝した。叔母、叔父、従兄弟など、十数人による宴会である。
最年長の叔母は八十を三つ四つ過ぎ、叔父もまた来年が傘寿になるが、二人ともシャキッとして老けた風はみじんもない。
もともと、母方はみんな若ぶりで、私もどうやらその血を引いているみたいで、「人間、見た目は大事じゃけえのう」と酒のピッチは一段と進んだ。

私は日本酒一辺倒で、二次会として隣の叔父の家に移動してからも、ひたすら飲み続けた。何でも日本酒が底をつき、私のためにわざわざ買いに行ってくれたのには、何をどう詫びたらいいものか。半升近くを私一人で飲み干したらしかった。
しかし、おいしい酒だったので、翌日まで尾を引かず、午前中に宮島の弥山の登頂を目指した。

しかし、弥山登山は難行苦行であった。ケーブルカーで山頂近くまで上れるし、そうたいしたことはないだろうを高をくくっていたが、頂上までは一度下ってから、また登らないといけない。山頂までは片道三十分、往復一時間くらいだが、道幅は狭く、しかも石段続きで、階段の幅も狭く、歩きにくいことこの上もない。日差しがないのに、汗びっしょりになった。革靴で向かった私には天罰が下ったふうで、不心得者のそしりを免れそうにない。

途中、行き交う人のほとんどが外国人だった。
彼らのほとんどが半ズボンにTシャツ、スニーカーというスタイルで、足早に脇を通りすぎていくのを見ると、体力の差を痛感させられた。しかし、じきに彼らの多くが途中休憩し、肩で大きく息をしていたところをみると、予想以上にきついルートと言えそうだ。実際、この春、高尾山の小仏峠に登ったときよりも、時間は短いのにずいぶん険しく感じられた。

二日目の夜は、従兄弟がやっている季節料理「しおむら」(中区薬研堀一丁目)の料理を堪能した。
サンマの刺身、アスパラげそバター、すじ肉の大根煮、シロの天ぷら……と、私好みの料理が次々と出され、まさに至福の時間であった。
ただ一つ残念だったのは、この夜は日本酒を飲む気にはならず、ハイボールで通したこと。
常日頃、、日本料理には日本酒が一番、と言ってきた身としては、いささか締まりのない酒の席となった。
しかし、私には心身ともにリフレッシュできた広島味覚紀行ではあった


            アスパラげそバター
           季節料理「しおむら」(広島・薬研堀)の
           アスパラげそバター

※屋号「しおむら」の書は、写真家の故秋山庄太郎先生。私が無理を言って揮毫していただいた。

2019/10/10 11:30 | COMMENT(0)TRACKBACK(0)

時空の旅

平成を継ぐ新元号が決まった。
令和」という言葉の典拠が万葉集と知り、得心がいった。
私のなかに流れている血は、日本の風土に培われ、いまに息づいている。

何かの折々、古典文学をひもとき、時空の旅を享受して倦むことがないのは、
個人的な感興に拠るところが大きいだろうが、
それはまた、血のさだめであろうかと思わぬではない。

いまの仕事に手を染めるようになったのも、自分の意思というよりは、
目に見えない何かに突き動かされているような気がしてならない。
学生時代、柿本人麻呂の一首を取り上げ、同人誌に寄稿したのは若気の至りばかりではない。

ものを造り、書き、描き、奏で、舞い、紡ぎ、織り、塗り、語り、彫り、撮る……それら一連の芸術的素養は、私見ながら、
先祖から受け継いだ、いわば血のなせる技ではあるまいか。
私が折に触れて、芸術作品というのは頭でつくるものではなく、身内からにじみ出るものだとするのは、ひとえにそうした思いに基づく。

「令和」が梅の香と浅からぬ縁を持つようなので、
以前、詠った詩の一篇を引っ張り出してみた。
凍てつく寒さにあって、りりしく咲き薫る梅は高貴なまでに美しい。


白 翳(はくえい)

木の花はこきもうすきも紅梅、と清少納言は詠(うた)った。
白銀に映える紅(くれない)に、
平安の才女は燃えたぎる血潮を感じたか、
艶なる色香を好んだか。

ならば、ぼくはこう詠おう。
寒天に凛とさやかな白梅、と。

雪国育ちなのに、
寒さには弱いあなただったけれど、
その清冽な気品は、
孤高の士のごとく、
匂い立つがごとく。


2019/04/02 09:19 | COMMENT(0)TRACKBACK(0)

作家の礼儀

うなされる、というといささか大げさに過ぎようが、
いくつもの原稿の締め切りに追われ、あせりまくっているなかで、目がさめた。
まじかよ、とぼやいている自分の声が耳に残っている。

夢とわかって、じきに不快感は薄らいでいいはずなのに、
いっこうにそうならないのは、それが夢ばかりとは言えないからだろう。
来月から8月にかけて、びっしりスケジュールが詰まっている。

扇子の仕事を始めるようになって二十年足らずだが、
いまだかつてこれほどたてこんだことはない。
ちゃんとこなせるのか、楽天家を自認する自分が夢に見るくらいだから、内心ではかなりプレッシャーを感じているようだ。

ざっと予定表をめくってみると、
5月19、20日が石川県輪島市の正覚寺、
5月23日から7月3日は、京都高島屋6階の大垣書店の展示ブース、
5月25日、26日、27日は、金沢市の「カフェ&ギャラリー三味」、
6月20日から28日は日本橋三越本店4階和雑貨サロン、
7月12日から8月12日は、シンガポール・マンダリンギャラリーの「atomi」、といった具合である。

いそがしいのは、持ち込まれた話を断らなかった結果でもあるが、こちらから働きかけていた面もなくはないので、お断りできるはずはない。むしろ、多忙に感謝するのが、作家の礼儀でもあろうか。

実際、日本橋三越本店の個展はことしで14年続けての開催なので、毎年のことと心得ているが、今回は例年よりも会期が二日長い。それだけ期待されていると思うと、いつにもまして気合いが入ろうというものである。

私の展覧会は、扇子と花扇画とのコラボが多い。
用の美である扇子に加えて、目の慰み、心の癒しとして、花扇画の魅力を知ってもらいたい、そして願わくはそこに、文学の香りを付け加えたい、というのが私の変わらぬ思いでもある。
作品一点一点に「詞書」を添えているのは、そうした理由もあってのことである。

私の古い友人の一人である日本画家は、絵を描くときはいつも、遺作のつもりで向かっている、と公言してはばからない。
勇ましく、恰好いい言葉に、口先だけだと揶揄する向きがあるかもしれないが、実直で誠実な彼を、私は一度たりとも疑ったことはない。というよりも、堂々と言ってのけるその気構えを、うらやましくさえ思っている。

はたして、自分にそこまでの気魄と覚悟があるか、と自問すれば、はなはだ心もとないが、人の心に灯りを燈すような作品を紡ぎたい、とはいつも願っている。その思いに嘘偽りはない。
人の胸を揺さぶるような作品を生み出すには、どれほどのエネルギーが必要なのだろうか。

うまいとか達者だけでは、人の胸をうつことはできまい。
人間としての素養、思想が塗りこめられて、初めて作品に命が宿る。
線一本、色一つ、言葉一句、音一つ、身振り一つに、作者の血が通い流れている。
芸術とはそういうものだろう。

人それぞれに、それぞれの人生観があるように、芸術観もまた一様ではないけれども、
いのちの尊さ、生きるよろこびを、作品を通して伝え、共有する、
いわば、魂のつながりにこそ、芸術の存在意義があろう、と私は思うのである。




2018/04/15 08:42 | COMMENT(0)TRACKBACK(0)

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