fc2ブログ

洛陽の紙価

きのうの東京は季節はずれの寒さにかじかんだ。
氷雨が降り続き、みぞれまじりになったと思ったら、午後になって牡丹雪へと変わった。
けさもまだ余寒が残っていて、足もとが冷える。
桜の開花にあわせて、花吹雪ならぬ、春の雪が舞うというのは、決して珍しいことではないが、春分の日にあわせて、花見遊山を計画していた人にはさぞ恨めしい天気であったろう。

私も、しまい込んだダウンジャケットを引っ張り出したものか、
思い悩みながらも、この寒さも一日だけのことらしいので、
外出を控え、差し迫っている原稿書きに徹することにした。

和の生活マガジン『花saku』(PR現代発行)の新連載“吉本忠則の花鳥画の世界~季節の風に包まれて”が、今年度の4月号(3月20日発売)からスタートした。
その6月号の原稿の締め切りが迫っており、少ない字数とはいえ、のんびり構えているわけにはいかない。

「花扇画(かせんが)」は私の造語である。
技法や画材にいっさいとらわれず、好き勝手に描いた作品のことで、語源は、扇子作家が描く草花図、というところから取っている。
一見すると、日本画風に映るかもしれないが、日本画とは似て非なるもので、ジャンルとしては現代美術に属する。

もとはといえば、「この絵は何画ですか?」とよく聞かれるので、その返答として考えついたのだが、一般の人には耳慣れない言葉にはちがいないから、「日本画でも洋画でもありません」と説明する労が省けたわけではない。むしろ、よけい手間暇がかかるようになったが、「花扇画」を知ってもらうにはそれなりの努力が必要ということでもあろうか。

そういえば、新聞か雑誌かで、私の花扇画のことを知った北海道のあるご婦人から、
「花扇画を習いたいので教えてほしい」というお手紙を頂戴したことがある。
残念ながら、私の仕事は教えたり教えられたりするようなものではないので、丁重にお断りさせていただいたが、花扇画に興味関心を抱いてくれたその申し出を素直にうれしく思ったものだった。

私が『花saku』に連載を始めてかれこれ5年になる。
もうそんなになるのかと、自分でも驚いているが、当初はこんなに長く続けるとは思ってもいなかった。
それが2年ごとにテーマを変え、こうしていまに及んでいるのは、ひとえに編集者の方々の思い入れがあってのことである。

いったいに、雑誌における連載というのは、編集者と作家の共同作業的なところがあって、相互信頼の上に成り立っている。いわば、同志のようなものである。
良いものを書きたい、と作家が思うのは当たり前のことだが、それをフォローし、助言を加え、士気を高めていくのは編集者のたいせつな役目でもある。

洛陽の紙価を高める、という言葉があるが、毎号、私の書きものを楽しみにしている人が一人でもいるとしたら、それは作家のよろこびであり、編集者のよろこびでもあろう。かつて編集畑を歩いてきた私の偽らざる気持ちでもある。
自他ともにアナログ系人間を認める一人として、電子書籍にはない紙文化の魅力を伝承拡販すべく、これからも歩き続けていけたらと強く願っている。



2018/03/22 10:10 | COMMENT(0)TRACKBACK(0)

能登の雨

先週、およそ30年ぶりに能登の輪島を訪れた。
朝一番のフライトで羽田を発ち、その日の最終便で東京に戻ってくるという、
気ぜわしいスケジュールだったが、時間に追われるという感覚は希薄で、
むしろゆるやかに流れていったように感じたのは、多分に現地で出会った方たちのぬくもりにふれたせいかもしれない。

5月19、20日の両日、輪島市正覚寺において、『能登震災復興10周年』の記念イベントがおこなわれる。
その打ち合わせと顔合わせをかねて、同寺の山吹啓ご住職夫妻や檀家の大向稔さん、裏千家業躰の奈良宗久ご夫妻、それにイベント会社の関係者など十余人が一堂に介したのだった。

私は、関係者の一人である坂本善昭さん以外の方とはみなさん初対面だったが、奈良さんについては、昨年12月、金沢市内で開かれた「加賀友禅に魅せられて~“kotoha”デビューコンサート&加賀友禅大使着物ショー」の中で、ご兄弟で金沢文化の魅力について対談されているのを、客席から見聞きしていて、まんざら知らぬではなかった。

お寺の本堂に場を移し、企画プロデューサーの下田武央さん、運営進行ディレクターの経田泰夫さんらと、当日の設営や段取りなどについて打ち合わせをしたのち、全員が車に分乗し、近くの蕎麦屋さんへ移動した。歩いても行けそうな距離だったが、あいにく小雨が降り続いていた。しかし、冷たい雨ではなく、木々や草花が芽吹いてきそうな木の芽雨(このめあめ)だった。

店の前で車を降りるなり、昔、立ち寄ったお店ではと、ふとそんな気がした。
入ってすぐの窓側のテーブル席に腰を下ろしたような記憶があるのだが、自分の思い違いかもしれない。
しかし、郷愁に似た近しさをおぼえたのは事実だった。

そんな感慨もあって、食膳に供された地元の銘酒「白菊」と「千枚田」は空きっ腹に心地よく沁みた。
山吹住職は酒豪らしく、盃を持つ手つきからしてちがったが、みなさん男女の隔てなく、お飲みになられていたのは、さすが酒どころ石川県人の面目躍如といったところだろうか、といっそう親しみがわいてきた。

昼間の小宴はまたたく間に過ぎ、歓談の余韻をひいたまま、2時前には散会となった。
私はこのあと、何人かでお茶でもするのだろうと思っていたら、坂本さんたちはすぐ金沢に帰られるとかで、私一人、取り残される恰好になった。そうしたら坂本さんが大向さんに、「時間があるようだったら、吉本君を案内してもらえますか?」と頼んでいた。

私は恐縮し、それには及ばないと遠慮したが、大向さんは嫌な顔をするどころか、話相手が見つかったとでもいうふうに、ご住職の車を借り受けると、私を助手席に座らせ、輪島の海岸へと車を走らせた。有無も言わさず、というのはこういうことを言うのかもしれない。しかし、私にとってはありがたい申し出にはちがいなかった。

聞けば、大向さんは坂本さんより一つ上の昭和18年生まれで、現在は田畑を耕し、自給自足の暮らしを謳歌されているとか。輪島に生まれ、輪島に育ち、長く輪島塗の仕事に携わってきた大向さんにとって、輪島は自分の庭同然のようでもあった。
私は大向さんの懇切丁寧なガイドに耳を傾けながら、いつか能登を取材しているような気分になった。

じつは、いま書いている小説に、能登が登場するシーンがあるのだが、はからずも推敲するのに役立ったばかりか、新しいイメージが浮かんできて、もしかしたら、輪島へ来たのはこのためではなかったかと、錯覚するほどであった。

平日の雨の昼下がり、海沿いの起伏に富んだ道を行き交う車はほとんどなかった。いくつかの集落を経めぐったが、道中、老婆のうしろ姿を一人見ただけだった。そのとき、松本清張さんや水上勉さんのいくつかの小説が思い浮かんだのは、降り続く雨と、ひっそりと静まった集落、そして重たい日本海の海の色に誘われてのことでもあったろうか。

そのうち、大向さんが「ちょっと寄ってみましょう」と、山中の細い道へとハンドルを切った。
「あいにくの雨ですが、人もいないだろうし、かえっていいかもしれません」
この先に、「桶滝(おけだき)」という名の滝があり、それを私に見せようというのだった。

曲がりくねった道をまわり込むようにして、それらしい開けた場所に出ると、一台の白い車が止まっていた。
「あれ、人がいる」と大向さんが言ったその瞬間、私は推理小説の世界にまぎれこんだような気分に襲われた。
中年のジャンバー姿の男性が傘も差さないで、うす暗い階段を上がってきたのだった。

大向さんが何か声をかけたように思うが、男は無言のまま車のほうへ向かった。「いわき」ナンバーだった。車に人の姿はなかった。
「なんだか、小説のワンシーンみたいですね」と私は言ったが、大向さんには聞こえなかったらしい。
樹林に囲まれた、滝へ下りる階段はゆるやかだった。しかし、濡れ落ち葉でおおわれ、歩きにくい。傘をさしていると、かえって危ない。

滝口にはわれわれ以外に人影はなかった。流れ落ちる滝の音が騒がしい。
山の斜面に大きな岩がせり出し、岩をくりぬいたように穴が空いている。その中を水が勢いよく流れ落ちているのだった。雨で水量もかなり多いようだった。

「桶の底が抜けたように見えるので、名前がついたんですよ」と大向さんは説明した。
岩に穴が空いているさまは、たしかに桶の底が抜け落ちているように見える。穴は自然にできたそうで、自然の造形の力にはただ圧倒されるばかりだ。

「ふだんは向こう岸に行けるんですよ。あそこに水飲み場がありましてね」
大向さんが滝のほとりを指さして言った。
狭い川幅ながら、いまは水かさが増して、向こう岸にはとても行けそうにないが、ふだんは飛び石伝いに渡れるらしく、水を汲んで帰る人もいるのだとか。

私は目をこらしたが、どこがそうなのか、よくわからなかった。うっそうとした木立で、うす暗いせいもあった。
あたりを見まわしているうちに、さっき見かけた男性をヒントにして、自分と大向さんはたまたま通りかかった目撃者という設定で、何か書けないものかと着想がひらめいた。

具体的に何かが思い浮かんだわけでもないが、面白いものが書けそうな気がして、よほど大向さんにその話をしようかとも思ったが、笑い飛ばされるのがおちかもかもしれないと思い直し、口には出さなかった。
しかし、「のと里山空港」までご親切に送り届けていただく間中、滝口で見かけた男性の印象はなかなか消えなかった。

私はいまだかつて、推理小説を書いたことはないし、書こうとしたこともない。しかし、短編なら、と気持ちが動いたのはひとえに、男の影とともに、先に題名を思いついたせいかもしれない。
『能登の雨』、それが私にひらめいた小説の題名である。

いま思うと、演歌のそれのような気がしないでもないが、変に凝っていなくて、自分的にはちょっと気に入っている。
ただ、根が気まぐれな性分だけに、はたして本当に書き上げられるのか、自分ながら心もとなくもあるが、こうしてブログに書いたのだから、何とか一篇の掌編小説に仕上げたいと思っている。






2018/03/12 11:59 | COMMENT(0)TRACKBACK(0)

旅愁

数日前のポカポカ陽気がうそのような、きのうきょうの寒の戻りである。
冷たい北風が頬を刺す。
変わりやすいのは秋の空が定番だが、この時期の春の陽気も移り気だ。

.そう言えば、移り気なのは男心だったか、女心だったか。
気になって調べてみると、どっちでもいいらしいとわかり、
「なんだ、そうか」と拍子抜けした。

この種のことわざは落語みたいなもので、
ああだ、こうだと理屈を並べ、それらしく聞こえればいいのだろう。
ただ、長きにわたって口の端にのぼるというのは、それなりの説得力があってのことにちがいない。

日本ではどうやら、「男心」が最初だったようだが、
その後、イギリスから、「女心と冬の風」(イギリスの冬の風は女心と同じように強い日もあれば、弱く吹く日もあるの意)ということわざが入ってきて、どうやら「女心」が優勢になったらしい。
実際のところは、男であろうと女であろうと、どっちもどっちで、
当たるも八卦、当たらぬも八卦、の類の笑い話にすぎまい。

それにしても、けさの都心の空気は冷たい。
この調子だと、あしたはどうなることかと、私の関心は北陸の空模様に向かう。
じつはあした朝一番の飛行機で、輪島に出かけ、夕方には東京に帰ってくることになっている。

輪島には30年近く前に一度だけ行ったことがある。
いつか詩や小説、エッセイなどを書きたいと思い、
金沢に一泊し、それから輪島に向かったのだった。

そのときは電車で輪島へ入ったように思うが、
のと鉄道七尾線は平成13年に廃止され、いまはバス便になっているらしい。
当時、終点である輪島駅に着いた時、ホームの案内板に次はたしか「ナホトカ」と書いてあったのを見て、
日本海の突端の地に立っているんだと、旅愁をつのらせたものだった。

今回の輪島行は、忙しないスケジュールからもわかるように、仕事がらみのものだ。
私の大学の先輩であり、イベントのプロデューサーでもあるSさんの采配で、
能登震災復興10周年」と銘打ったイベントが5月19、20日、輪島市の正覚寺でひらかれる。

19日の献茶、法要、お茶会等に続いて、20日には歌手の小室等&こむろゆいさん父娘の音楽会、輪島・和太鼓虎之介の演奏会などが開かれる。会期中には屋台も出るらしいから、かなり大掛かりなイベントのようだ。
私も20日の午前、講演を依頼されていて、あわせて私の扇子や花扇画の展示会がおこなわれる。

会場がお寺さんなので、どういう展示が可能か、
まずは現地を見ておこうというのが、関係者の方々との顔合わせとともに、今回の主たる目的でもある。
というわけで、旅愁にひたる時間はなさそうだが、
それでも初めて降り立つ「のと里山空港」は、私の興趣を煽ってやまない。

空港から輪島まではバスを利用するが、
車窓を流れる風景が私の目にどう映るか、
あしたの天気次第のところがあるだけに、なおのこと、能登の天気が気にかかるのである。



2018/03/07 09:22 | COMMENT(0)TRACKBACK(0)

女性団体競技「パシュート」に感動

真冬を思わせる、今朝の東京である。
どの窓ガラスも曇り、自然と足もとが冷えこんでくる。
小雨が降っているらしく、濡れたベランダの手すりが寒々しい。

例年なら、二月も二十日を過ぎれば、「春近し」の声が聴こえてきて不思議はないのだが、
ことしは冬将軍が居座り続けていて、春の使者も近寄りがたいふうだ。
いましばらく、防寒具は手放せそうにない。

しかし、韓国・平昌で開催中のオリンピックでは連日、
寒さを吹き飛ばすような熱戦が繰り広げられている。
日本勢も獲得したメダルの数は、過去最高を記録したとか。

ただ私は、この頃はわりと平気になったが、昔は冬が大の苦手だったせいか、
ウィンタースポーツにはまったく縁がない。
スケートこそ、何度かやったことはあるものの、スキーはいまだかつてやったことがない。

他の競技は推して知るべしで、
テレビに映し出される競技についても、知らないものが多く、
興味も関心も薄いのだが、それでも競技によっては興味をそそられるものもある。

今回、私が熱く応援したのは、女子団体のパシュートという競技だ。
三人が一組になって、走破タイムを競うもので、二つのチームがリンクの手前と向こうに分かれ、同時にスタートするので、手に汗握る臨場感がある。

私は根がせっかちなせいか、誰が見てもすぐにわかる、単純明快な競技が好きだ。
やれ飛型点だとか、ワザの難度だとか、表現力だとか、あれこれ専門的な知識が入り込む競技は、
わかりにくい面があって、いま一つ興が乗らない。

その点、このパシュートは素人の目にも結果が一目瞭然で、
しかも決勝の相手が、個々の力では歯が立ちそうにないメダリスト軍団のオランダとあって、
小柄な日本の女性選手がチームワークと綿密なプランによって、いかに戦うか、大いに興味をそそられたのだった。

競技は期待に違わず、白熱したものだった。
日本が先行したものの、すぐに逆転され、しかし、後半になって再逆転するという、
絵に描いたような劇的な展開となり、感動もひとしおの金メダルになった。

オリンピックはまだ続いているが、私的にはこの競技を観られただけで満足している。
彼女たちの涙あふれるインタビューや、表彰台でのはじけるような笑顔を見ながら、
私も何とか、理屈抜きに、ひと目で相手の心に響き、しみわたるような仕事をしたいものだと、
決意を新たにしたところであった。




2018/02/23 08:02 | COMMENT(0)TRACKBACK(0)

生命の神秘

二月も半ばを過ぎた。
厳しい寒さは続くが、夜明けは早まり、暮れゆく時間もじょじょに遅くなった。
季節は確実に、陽光きらめく春へと向かっている。

窓辺に置き、水やりを欠かさなかったシクラメンだが、
とうとう花を咲かせぬまま、この冬を越すのかと思っていたら、
先日、葉陰にいくつもの白い蕾を見つけた。

蕾と言っても、ほんとうに未熟児のようで、
花が開くまで生育していくのか、心配でしかたないが、
小さな命の誕生は、私には神秘的なことに思えて、
「よくぞ、咲いてくれたね」とささやきかけたいようだった。

このシクラメンは一昨年の11月、近くのギャラリーで個展をひらいた折、
日本舞踊の藤間浩菊さんからいただいたものである。
世話も行き届かないのに、翌春の4月過ぎまで、ピンクの花をたわわに咲き薫らせてくれた。

私はもともと観葉植物が好きで、部屋に花を飾る習慣はあまりない。
しかし、花の彩りが生活に潤いを与え、
目の慰みだけでなく、心の滋養になることは重々承知しているつもりだ。

以前にも、女優の眞野あずささんから、ゴージャスな黄色い胡蝶蘭をいただいたことがあり、
日がな一日、見惚れていたものだったが、
「花のある暮らし」は人の心をやさしくしてくれるように思う。
私が自ら描く絵を、「花扇画(かせんが)」と名付け、花図を数多く発表しているのは、故なきことではない。

眞野さんから贈られた胡蝶蘭は、
何か月も花を咲かせ続け、身内の一員になったような気持ちがしたものだ。
それだけに、室内から花が消えたときは言いようのない寂しさを感じた。

そんな体験もあって、暑さに弱いシクラメンを枯らさず、弱らせず、
何とか来年もまた、咲かせたいものと、
私はいつになく熱心に、水やりとか、葉の処置とか、置き場所とか、ネットなどでいろいろと調べてみた。

そうした努力の甲斐もあってか、どうにか酷暑を乗り越えることができたが、
葉の数は減り、痩せて、見るからにみすぼらしくなったのは否めない。
やはり、素人の付け刃では無理だったかと嘆きながらも、
カーテン越しの陽の光りと、水やりは欠かさず、一縷の望みを抱き続けていた。

それだけに、赤子の白い花芽を見つけたときは、感動で胸が熱くなり、
頬ずりをしたくなるような愛しさをおぼえた。
生命の神秘、不思議さに打たれたのだった。

思えば、この齢になって、いやこの歳になったからこそ、
日々のささやかな出来事や、人との出会い、やりとり、いとなみに心がさわぎ、
生きていることの有難さが胸に沁みるのかもしれない。
シクラメンの花芽に心動くのも、
心身共に健康であるからこそだろう、と素直にそう思うのである。





2018/02/16 10:31 | COMMENT(0)TRACKBACK(0)