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哀痛の心

貧乏暇なしの生活を送る中にあって、
日々清新、目にする何気ない風景や草花一つ一つに愛しさを感じる。
命のありがたさが身にしみる。
生きているのではなく、生かされている、との感謝の念がこみ上げてくる。

このところ、日本各地で地震が頻発している。
地震列島の日本では、そう珍しいことではないが、何かの前触れではと、いやな予感がしないではない。
災害は忘れる頃にやってくると言うが、忘れる暇もないくらいに、このところ自然の変調が続いている。

それはもしかしたら、人間の傲慢さに対する天の怒りではないだろうか。
近年、各国で取り上げられているプラスチックゴミによる海洋汚染など、もう五十年以上も前から警鐘が鳴らされている。
私が学生の頃の、半世紀も前の話である。

東京・有楽町にあった読売ホールで、川端康成氏をはじめ、何人かの作家、文芸評論家による講演会があった。
出席者の一人、作家の水上勉氏が哀調を帯びた静かな語り口で、輪廻転生の教えを説きながら、環境問題にふれ、土に還ることのないプラスチックの怖さを切々と訴えた。

日本の山河の美しさは古来、日本人の血肉となり、精神の肥やしとなってきたが、それがいま脅かされている。
その一つが、海岸の汀に打ち寄せられた、おびただしい量のプラスチックゴミだと、氏は言うのである。
プラスチックは自然の摂理に背いて、決して土に還ることはない。
半永久的に地上に遺り、海上、海中をさまよい続け、やがて地球の生態系を破壊していく……。

水上氏の悲憤の声は、五十年も前の話ながら、いまなお耳朶にこびりついている。
そのとき、胸に刃を突き刺されたような痛みが走ったのを、私は絶対に忘れることはないだろう。
それは被爆二世として生まれついた、私への何らかのメッセージではなかったか、と遅まきながら、この頃、そんなことを思うようになった。

私の作家活動は緒に就いたに過ぎない。いままではほんの助走であって、本番はこれからだと、覚悟を新たにしている。
もしかしたら、私の作品に一貫して流れるのは、美しき日本の風土への憧憬であり、また人の傲慢さを憂う哀痛の心かもしれない。
つたない私の絵や小説に触れて、何人かの方々から、心が癒やされて、優しさを感じます、と言われたことがある。

自分ではよくわからないが、
心穏やかに、観る人(あるいは読む人)の心に寄り添うような作品をものしたいというのは、私の切なる願いでもある。
日々、時間の重みをかみしめながら、自分にしか紡ぎ出せない世界を、一粒の種として何とか遺したいものである。


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2019/06/25 10:30 | COMMENT(0)TRACKBACK(0)

令和元年の蛍狩り

先週の5、6日、理事会に出席するため足立美術館へ行った。
理事という役職の重たさを再認識しながら、会議終了後、評議員と監事の方々を交えての宴席は、どこかアットホームな雰囲気があった。理事長である足立隆則館長の実直で、飾らぬ人柄もあってのことだろうかと、三十数年来の友人の一人として、美術館のさらなる隆盛を願ってやまない。

今回の出張にあたっては、忘れがたい出来事がいくつかあった。
5日の午後、京急の羽田空港国内線ターミナル駅を出てまもなく、「先生!」と呼び止められた。松竹の中野正夫シニアマネージャーがすぐ目の前に立っていた。中野さんとは5月30、31日とふつか続けて、仕事の話でそれぞれ場所を変えて会ったばかりだった。

その余韻も覚めやらぬうちに、いままた、思いがけない場所でピンポイントに出会ったのだから、二人が驚いたのも無理はない。聞けば、中野さんは福岡からの帰りだそうで、私がこれから足立美術館へ行くところだと言うと、「こんなことって、ほんとにあるんですねえ」とは、まさに小説や映画さながらのシチュエーションだった。

人生にはどんなドラマが待ち受けているか、誰も予測がつかない、と私は常日頃から実感しているが、中野さんとの奇跡のような出会いは、きっと何か意味があるにちがいない。思えば、彼と知り合ったのはついこの春のことで、よほど縁が深くなければ、こうしたドラマは生まれないだろう。この先、何か後々まで残るような仕事が一緒にできたら、と私は気合いを新たにしながら、あらためて人の縁の不思議を思った。

中野さんとの短い立ち話を惜しみながら、空港の待合室にいくと乗客の姿が見えない。時計を見ると出発時刻の15分前だった。ほかの人たちはすでにバスで向かったらしい。最終の乗客を運ぶためのバスが一台待機していたので、あわてて乗り込むと、二人しか乗っていなかった。私を待っていてくれたのかと思うと、さすがに気がとがめたが、すぐには出発しないところをみると、まだ誰かを待っているのかもしれない。しかし、結局、ほかに客は現れず、数分後にバスは発車した。

米子空港に着いたら、館長が迎えに出ていた。同機には私のほかに日本画家のM先生、某大手企業取締役のTさん、それに映画プロデューサーの岡本みね子ママ(映画監督の故岡本喜八夫人)が乗り合わせていると事前に聞かされていたが、ママの姿が見えないので、どうしたのか尋ねると、館長は笑いながら「乗り遅れたそうですわ」とあっさりと言った。

それを聞いて、もしかしたら、と私は思った。
羽田でバスがすぐに出発しなかったのは、岡本ママを待っていたのかもしれない。ママはもう八十歳を越えている。最近は体力がなくなり、無理がきかなくなった、とつい三ヶ月前に直接、私はママから聞いたばかりだった。飛行機の搭乗口がふだんとはずいぶん離れていたので、それで乗り遅れたのかもしれない。

しかし、ママは最終便に乗ってくるそうで、「理事会には間に合わなくても、二次会には参加できそうですわ」とは、館長もずいぶんおおらかになったもんだ、と私は自然に笑いがこみあげてきた。近年、館長も人間が円くなってきたのは多分に歳のせいもあろうか。

さぎの湯荘での宴席は、出席者のほとんどがいける口で、私もあおられて、いつも以上にピッチが上がった。とりわけ、地元の名酒「月山」の大吟醸は格別だった。4合瓶がまたたく間に四五本は空いた。
宴もたけなわになったころ、宿の人から、ご希望なら蛍が見られる場所へご案内しますが、と声をかけられた。何でも旅館から車で四、五分の場所に、毎年この時期、蛍が舞い始めるのだという。役員の中には、これを楽しみにしている人も少なくないらしかった。

私はもちろん二つ返事で参加することにした。酒はいつでも飲めるが、原風景のような山里で蛍が飛び交っているシーンなど、めったに見られるものではない。自分の記憶をたどってみても、三十年近く前に、伊豆の天城湯ヶ島で見て以来である。

マイクロバスは十人近くを乗せて、川べりの土手を走った。街灯がないので、真っ暗で何も見えない。
橋のたもとで車を降りたが、ヘッドライトが消されると、一瞬、漆黒の闇に放り込まれたようだった。隣に立っている人の顔さえ判別できない。

しかし、目が慣れるにつれて、すぐ目の前に巨大な山塊が立ちはだかり、頭上に満天の星あかりが広がっているのがわかった。
そして橋の下に目を移した瞬間、息を呑んだ。ほのかな川筋のふちを無数の蛍火が妖しく舞いゆらめいていた。黄色みを帯びた光は儚く消えては灯り、消えてはまたほのかに浮かび上がる……というふうで、夢のような世界とはこいう眺めを言うのだろう、としばし言葉を忘れて見入った。

宿の人の説明によれば、今日は昼間が30度を超す暑さで、夜になっても風はほとんどなく、蛍を鑑賞するには絶好の気象条件とのことだった。蛍の種類はゲンジボタルという。
しばらく見ていると、ご一緒したホシザキ(株)の坂本会長が蛍を一匹、手のひらに乗せてきた。館長の妹さんである大久保さんから、坂本会長は毎年、こうして蛍狩りを楽しんでいると聞き、会長はつかの間、こうして童心に帰り、精神のリフレッシュをはかっているのだろうか、とふとそんな感傷がよぎった。

蛍は川上よりも、川下のほうが断然多かった。
時間が経つにつれて、蛍の数が増えてきて、やがて消えたり灯ったりする明滅のリズムが一つになった。それは指揮者に合わせて合奏しているようにも、舞踏会で群舞を楽しんでいるようにも見えた。

私は宿に帰ってからも、しばらく地上の蛍火と、天空の星あかりの協奏に酔いしれていたが、遅れてやってきたママの顔を見るなり、一気に現実に引き戻された。お久しぶりです、とママに挨拶したが、この三月に美術館で会い、夜は夜で館長らを交えてカラオケに興じたとあっては、これで久しぶりと言えるのか、自分でもよくわからない。

しかし、ママの元気そうな顔を見て、令和元年の蛍狩りはいっそう忘れられないものになったことは確かだ。
その夜の無礼講は夜中の一時半過ぎまで続いたが、談論風発のみなさんの元気そうなお顔を拝しながら、人の縁とはほんとうに不思議なものだとつくづく思ったことであった。




2019/06/11 09:05 | COMMENT(0)TRACKBACK(0)

山あり谷あり

例年なら、6月のこの時期は、日本橋三越本店での個展を間近に控えて、いささか気ぜわしくしているのだが、
三越個展15周年にあたることしは、日本橋での開催ではなくて、
9月14,15日に開催される「三越 秋の逸品会」(於・ホテルニューオータニ)に出品することになった。

その分、時間的なゆとりができたが、依頼されている原稿が書き上がっておらず、
のんびり構えているわけにもいかない。
朝から晩まで、机に向かう生活が続いているが、根が根気強くないので、小一時間もしないうちに休憩タイムに入りたがる。
そのため原稿はなかなか思うようにはかどらない。われながら困った性分である。

私のこうしたルーズさは今に始まったことではないので、内心ではそう焦っているわけではないが、尻に火がつき始めていることは確かだ。どこかでスイッチを切り替えないと、と頭の中でカレンダーとにらめっこしているが、
人間の思惑などどこ吹く風と、時間は容赦なく流れていく。

思えば、人の一生というのはすべからく、自分の意思一つにかかっているのだと、あらためて気づかされる。
悩みごとや苦しみ、難題は人生に付きものだが、
それらをクリアしたときの安堵感や喜びは格別のものがある。
山あり谷ありだからこそ、人生は彩りを増し、陰影を深め、人間としての奥行きが広がっていくのだと素直にそう思う。

この数年、いろんな方との出会いによって、私の創作活動はずいぶん広がりつつある。
思いも寄らない海外展の話がちらほらと耳に入ってくる。
もし、それが実現したらどんなに素敵だろう、と胸が躍る。

それを思うと、産みの苦しみのあとにはきっと、それを補ってあまりある「果報」が待ち受けてくれているに違いない。
果報は寝て待つものではない。夢は夢見るものではない。
まず足を踏み出し、自分の手でつかみ取っていくものだと、おのれを鼓舞しながら、きょうも机に向かっているのである。





2019/06/05 09:20 | COMMENT(0)TRACKBACK(0)

令和元年、帝国ホテルに作品展示

超大型連休とか、前例のない10連休などと騒がれても、勤め人でない私には「対岸の火事」みたいなところがあって、ふだんの生活にさしたる変化はないのだが、ことしはいつになく気ぜわしい日々を送った。

この春、ある方から、私の作品を販売したいとの申し出があり、あれよあれよという間に、帝国ホテルプラザ館3階にある『ルイーズスクエア』さんの一角に、展示コーナーを設けていただくことになった。その打合せやら作品の搬入等で、連休中、何度となく銀座に足を運んだのだった。


           ルイーズスクエア店内風景
      ルイーズスクエア(帝国ホテルプラザ館3階)

もともと人混みが苦手な私は、人間や車の往来がめっきり減った都心の生活をありがたがる風で、今回、空いた道路や電車のおかげで作品をスムーズに運ぶことができたのは、もっけのさいわいであった。風炉先屏風を急遽、電車で運ぶことができたのも、電車の混み具合いを見越してのことで、まさにゴールデンウィークさまさまだった。

折しもことしは5月1日に元号が改まり、「令和元年」と歩調を合わせるかのように、私の作品が展示販売されることになったのは、じつに記念すべき門出と言えようか。すべて偶然の成り行きに過ぎないが、この先、何か良いことがありそうな気がしないではない。

今回の話のそもそもは、私の行きつけの銀座の小料理屋に、たまたま一人で立ち寄られた常連のお客さんが、富士を描いた私の卓扇画に目をとめたことに始まる。そのお客さん(Nさん)は松竹のシニアマネージャーをされていて、そのときちょうど和にちなんだ小物の物販品をさがしていたらしい。

その場ですぐに、料理店主の親方Yちゃんから、「ご紹介したい人がいるんですが、いま、どちらですか?」と電話がかかってきたとき、私もたまたま銀座三丁目で飲んでいて、その30分後には八丁目にある親方の店で早速、Nさんと飲み交わすことになったのは、運命の出会いと言うほかないだろう。

お互い初対面で、とりわけNさんは私の氏素性など何も知らないまま、ミニチュア画をひと目見るなり、「これだ!」とひらめくものがあったというのだから、これをと言わずしてなんと言おう。Nさんの美意識、感性と、私の作品世界とがぴったり重なった、ということであろうか。

しかも、取扱い店が帝国ホテル内にあるというのは、私にとって願ってもない話であり、おまけに河口湖畔の「久保田一竹美術館」でも、私の作品を販売してもらうことになったのは、何という強運かと自分でもおどろきを禁じ得ない。


             赫しぐれ〈不二〉 卓扇画
          赫しぐれ〈不二〉 7×5㎝

『ルイーズスクエア』さんは、武具甲冑をはじめ、日本の伝統工芸品を主に販売しており、お台場にも店舗を構えている。
失礼ながら、私は同店について何も知らなかったが、Nさんの紹介で、同社のI社長をはじめ、代表や店長の方々と近しくお話をさせていただくことができた。

思えば、私の人生はこれと似たような話ばかりで、身に余る出会いの数々によって支えられ、彩られている。
これをただ運がいい、と片付けるにはあまりに軽々しかろう。

しかし、いかなる出会いであろうと、それを実のあるものにできるかどうかこそが、人間の裁量、実力というものではないか、と考えると、すべては所詮、自分の覚悟と身の処し方によって決まるといっても過言ではあるまい。

この歳になって、いまなお新たな素敵な出会いを重ねることができるのは、決して自分一人の力ではない。目に見えない加護によって、自分は生かされているのだと悟り、愚直に、正直に、伸びやかに生きるのが、人間としての幸せの道であろうと、この頃、つくづくそう思うのである。


2019/05/07 15:15 | COMMENT(0)TRACKBACK(0)

平成最後の花見山行

私の扇子を愛用してくれている、FB友のKさんの旗振りで、
一昨日、「平成最後の花見山行、気分は西行」(Kさん命名)としゃれ込み、男性二人、女性四人の総勢六人で高尾山の城山小仏へ登った。
当日の天気は晴れ時々曇り、暑すぎもせず、風も強からず吹き流れて、絶好の山登り日和だった。

みんなは事前に、日焼け止めのやりとりをしていて、自分もそれなりに気をつければ良かったが、降りる駅を間違え、約束の時間に遅れたりしたこともあって、頭がまわらなかった。それにフード付きの薄手のジャンパーを用意していたので、日差しはそれで遮ればいいと考えていたところもあった。

しかし、当日は半袖のTシャツでいいかも、とKさんが予測していたとおり、歩き始めるとじきに汗ばんできて、フードどころではなかった。結局、ほとんど無防備なまま、山の紫外線をもろに受ける羽目になった。おかげで翌日は顔から首筋あたりまで、すっかり日焼けし、いまも赤ら顔が続いている。

もっとも、日焼けの失敗を除けば、じつに楽しい山行だった。
今回の山登りはもともと、Kさんと私、それにI女史による飲み会の場で持ち上がったのだが、
山登りに精通したKさんは、登山経験がほとんどない私とI女史を気遣って、「のんびりゆっくり行きましょう」とばかりに、
平日、参加できそうな手弱女(たおやめ)何人かを誘ってくれたのだった。

Kさんと私以外はすべて女性なのは、遊び心を知悉するKさんの、いわば洒落っ気であろうか。
I女史を除く、女優のHちゃん、看護師のNちゃん、カメラマンのTちゃんの三人とは初対面だったが、「山登りの好きな人に悪い人はいない」との俚諺があるように、たちまちにぎやかな道行きとなったのは、人の相性を過たなかったKさんの相馬眼のおかげでもあろう。

そのKさんは10キロ近い荷物を背負い、何くわぬ顔で、坂道や階段をどんどん登っていくのには恐れ入った。
伊達や酔狂で山登りはできない、と教え諭された気がした。
じつは戯れに、重たいリュックを担がせてもらい、少しばかり歩いてみようかと、内心思ったりしたけれど、口に出さなくて良かった。

四月下旬の高尾山は匂い立つような新緑の世界だった。
スミレやツツジ、山吹が目にやさしく、鳥の鳴き声も小躍りしているように聞こえた。
大きく息を吸い込むと、肺の奥まできれいになりそうで、爽快なことこの上ない。
山桜はすでに散っているのもあったが、八重の花びらが行く手に降りそそぐさまは、そのまま映画に使えそうなシチュエーションだった。

高尾山は昔から、「初心者も楽しめる山」として絶大の人気があるようで、平日にもかかわらず、多くの登山客で賑わっていた。中高年の姿が多いのは、それを証明しているようでもある。
しかし、いくら歩きやすいといっても、山は山である。木の根に足を取られたり、坂道で転んだり、階段から足を踏み外したりしたら一大事である。
自然相手に油断は禁物である。

山道に平坦なところは一つもない、と思って差し支えない。
また途中、切り込んだ深い谷間がのぞいているところが何カ所かあって、前やうしろを歩く人の姿が見えなくなったりすると、一瞬、自分一人、深山幽谷に紛れ込んだような錯覚をおぼえる。

思えば、人生行路もそれと似ているかもしれない。
人間は生きている間に、幾度となく孤独感に襲われることがあるが、人間が歩む道には数多の人が行き来している。
行く手にも、後ろにも人はかならずいて、それぞれ同じ方向に向かって歩いている。

急ぎ足で行けば前の人に追いつくし、立ち止まればいずれ後ろから人がやってくる。
それを思うと、孤独にさいなまれる必要はさらさらない。
自分一人、悩みを抱え込まなくても、人生というのはどこかで誰かがきっと、何かしらの手を差し伸べてくれる、と私は信じている。

目的地の城山茶屋には、想定時間よりもかなり早く到着した。
誰一人、初心者ゆえのトラブルに見舞われることがなかったからだが、私の本音を言えば、女性陣の健やかさに煽られ、まだまだ負けんぞ、と気負い込んだのがたまたま功を奏したというふうだった。

茶屋に着く早々、Kさんはすぐに宴会の準備に取りかかった。
持参した鍋とコンロに、茶屋が用意していたおでんの具を放り込み、氷でシャンパンを冷やし、持参のシャンパングラスを並べ……とその手際の良さには感服するばかりだ。

そして看護師のNちゃんは、Kさんとは何度か山の宴会に一緒したらしく、持参のパケットを手際よく切り、すかさずKさんが世界一おいしいと評判のイタリア・ムッチーニの白トリュフォオイルを惜しげもなく垂らす、という具合でじつに見事なチームプレーというよりない。

     今日のラインナップ(平成31年4月23日、城山茶屋に)                 画文集用にちょっとスナップを(城山山頂の山桜の下で)

私はただ何もせず、みんなの手際よさに見惚れるばかりだったが、ふと思い出して、Kさんに頼まれていた拙著『花影』を、茶屋のお母さんにプレゼントさせていただいた。
聞けば、お母さんは大の本好きだそうで、私の小説もきっと気に入るにちがいない、とKさんは考えたらしい。その折、私が足立美術館の理事をしていると知ると、去年、お母さんと娘さんの二人で足立美術館に行き、すごく感動したとのこと。世間は広いようで狭い。

テーブルに戻ると、すべて万端整い、いよいよ乾杯であった。
Kさんによれば、「登頂直後はなんと言ってもビールが世界最強」だそうで、取るものも取りあえず、瓶ビールで乾杯となったのだったが、なるほどそのひと口目のビールのうまさは筆舌に尽くしがたく、末永く忘れることはないだろう。

見計らったように、山桜の八重の花びらがみんなを言祝ぐように舞い流れてきたのは、昼間の山の宴会はこれにとどめを刺すと言わんばかりの自然の演出であった。これには誰しも感嘆の声を上げたが、私も西行の歌が素直に五臓六腑に沁みたことであった。

ビールに続いて出されたモエシャンピンクもまた格別、至福の味わいであったことは無論、言うまでもない。これもKさん持参の逸品であり、こう何から何までお世話になっては、Kさんにはしばらく頭が上がりそうにない。
人間は自然のふところにくるまれて生きている、そのことをあらためて思い知らされた、平成最後の花見山行であった。

願わくば 花の下にて 春死なん その望月の如月の頃
                     
                         西行


2019/04/25 16:50 | COMMENT(0)TRACKBACK(0)

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